「隠岐諸島」旅 その17(西ノ島) 焼火神社の造りに驚き、社務所でお話しを聞く
2016年の隠岐の旅、第十七回です。強風の中の西ノ島周遊ですが、絶景と名高い摩天崖や通天橋にも負けないほどの景色を見せてくれたのが、島南西部の鬼舞でした。
焼火山へ向かう
日が落ちきるまでにはまだ時間がありそうなのと、今日は宿が素泊まりで食事の時間をあまり気にしなくてよいので、もう一箇所足を伸ばすことにしました。
島の中央部、南に突き出た焼火山(たくひやま)に向かいます。ここは海士町からも何度か見た、島前カルデラの中心部の山。名前もそれっぽいです。
焼火山の裾野を西から回り込む道に入り、しばらく行くと駐車場があります。
参道入口には東屋とマムシ避けの竹の棒があります。一本借りて、林の中の参道へ。
途中、やや朽ちかけた摂社の祠を見かけながら20分ほど登り坂を歩くと、唐突に石垣が見えてきました。それもかなりしっかりしたもの。
「あ、社務所か」
石垣に囲まれた結構な規模の屋敷が出てきたので、拝殿かと思ったのですが、戸口に掛けられた表札には「焼火神社社務所」とかすれた筆文字で書かれていました。宮司さんの住居も兼ねているのでしょうか。ちょっとした宿坊もできそうな感じ。
なぜかその脇の大きな岩壁に、ノミと槌で何かを彫っている男性がいます。遠巻きに少し見ていましたが、なんとなく憚られたので声をかけずにそのまま神社へ向かいます。
焼火神社は非常に珍しい造り
登り坂だった社務所までの道はやがて平坦になり、狛犬がお出迎え。
たどり着いた焼火神社は拝殿がこちらを向いていますが、通殿を介した本殿は、左手の岩屋に埋もれるような形で建てられており、非常に珍しい。
たびたび改修を施しているようですが、拝殿と本殿は江戸時代の1732年(享保17年)に改築されたもので、隠岐諸島の社殿建築では最古のものだそうです。その歴史そのものも古く、創建は平安時代の一条天皇の頃。
焼火山縁起によると、海中より現れた三つの火が現在の社殿がある岩屋に飛び込んだのを村人が目撃。その場所に行ってみると仏の形をした岩があったので、社を建て祀るようになったのがそもそもの始まりと伝えられています。その頃は元々この山自体をご神体と考えていたようです。
後にこの山が修験道の霊場とされると、地蔵菩薩を本尊とする焼火山雲上寺が創建されますが、地蔵菩薩を祀りつつ「焼火権現」を社号にした神仏習合の社寺として広く信仰を集めていました。ここ焼火山は島前カルデラを見下ろす中央に位置する非常に重要な場所。海上安全の神として崇められていたそうです。
明治初期に、神仏判然令により現在の焼火神社となります。祭神は大日霊貴尊(おおひるめむちのみこと)で、天照大神の別名とされます。
こうしてみると、神社ではありますが、確かにお寺のような雰囲気があります。
拝殿、通殿、本殿合わせて、国の重要文化財に指定されています。
そんなことを調べながら改めて見てみると、長い年月に褪せてきてはいますがかつては鮮やかだった塗りの面影も見て取れ、島人やこの海を行き来した人々の思いが感じられます。
御朱印をいただこうと社務所に声をかけると
「御朱印をいただきたいんだけど、社務所に誰かいるのかな」
来るときは岩壁で何か彫っている男性がいたのですが、すでにその姿はありません。
石垣の上には屋敷をぐるりを囲む塀。社務所の看板が掛けられた戸は閉ざされています。ダメ元でおそるおそる戸を開けて、中に声をかけてみます。
「はーい」と声がして、顔を出したのはなんと若い女性。宮司さん、ではなさそうです。
「御朱印をいただきたいのですが」と伝えると、今宮司さんは出かけていてしばらくしたら戻ってくるとのこと。待ちますか?と言われたので、お言葉に甘えて玄関で待たせてもらうことに。
すると、奥で何やら電話をしていた先ほどの女性が「私で良ければ書きます」という申し出。帰ってくるにはまだ時間がかかる宮司さんに電話で相談してくれていたようです。せっかくなのでお願いしてみると、これがなかなかの達筆。
待っている間に、先ほど岩壁を彫っていた男性も帰ってきました。聞けば、この社務所に住み込んでアート作品を作っているのだとか。男性は東京、女性は横浜から、西ノ島に来ているそうです。
「隠岐アートトライアルというアートイベントに去年参加させてもらった縁で、西ノ島で色々作っています。ここの宮司さんは実行委員長なんです」
隠岐でもアートイベントが行われていたのを初めて知りました。島民と島外アーティストが関わり合いながら作品を構築していく、というのがプロジェクトの趣旨だそう。
お話しを聞きながら、お手製のサルトリイバラの葉で巻いた餅「マキ」をいただいてしまいました。
「関東で言う柏餅ですね。こっちではサルトリイバラの葉を使います」
うれしくてまず先にかじってしまってから気がついて写真を撮りました・・・。
作業場っぽくなっている居間を覗かせていただいたり、アートのこと、島で暮らすことなど、色々お聞きしてすっかり日も暮れる時間となってしまいました。宮司さんにもお話しを伺いたかったのですが、あまり長居しても申し訳ないので、御朱印とマキのお礼を伝えて社務所を後にしました。
やっぱり、どんな場所でも思い切って声をかけると面白いことが待っているものです。
西ノ島の飲食店は愛想なしがデフォルト!?
宿に戻ったのは19時半。今夜は素泊まりなので外に食事に行かなければなりません。いくつか目星をつけていたので、早速向かいます。
「あれっ、お客はいるのが見えるのに閉店の札が出てる・・・」
宿からほど近い「善」というお店はラストオーダーの時間が過ぎているのか、それとも貸し切りなのか、ドアが閉められています。「磯四季」も営業終了でした。
「あ、ここも準備中になってる・・・」
「コンセーユ」というお店は、やってすらいませんでした。GWなのに・・・。
昨日お昼を食べた港の隠岐汽船の二階にある「風花」も、すでに営業終了時間。
「島の夜は早いとあれほどいつも自分で言っていたのに、このざまだ」と独り言を言っても始まりません。焼火神社から帰る途中にあったスーパーで弁当でも買っておけばよかったのでしょうが、後の祭り。
すっかり暗くなった別府の町を歩きます。
「普通の喫茶店ぽいからスルーしたけど、ここしかなさそう」
ということで入ったのが昔ながらの喫茶店。お客が誰もいないので入るのに躊躇しましたが、ここがやってないとなると本格的に夕食難民。選んではいられません。
店内には漫画がたくさん並んだ本棚。きっと地元の人たちが集まるお店なのでしょう。おばちゃんが一人、カウンターにいます。空いてる席に座り、メニューに目を通します。
スパゲティ、カレー、カツ丼、ハンバーグセット、サンドイッチ。いわゆる喫茶店の軽食メニューがずらり。
結局、しょうが焼きセットを頼みますが、ここでも注文時、配膳時に返事も何も言ってくれません。愛想ないのが西ノ島飲食店のデフォなんでしょうか。あ、浦郷のあすかはちゃんと対応してくれたなあ。
なんとなく居心地の悪さを覚えて、さっさと食べてお店を後にします。
旅先での飲食店でヨソ者感を味わう。これもまた旅の醍醐味だと僕は思っています。焼火神社の社務所でお話しを聞かせてくれた男性も、「この島や他の島に数年住んだことがあるけど、それでも島の人との間に垣根を感じることはある」と言っていました。いわんや一見さんの旅人をや、というところでしょう。
だからこそ、旅人に親しくしてくれる人のことは、いつまでも覚えているのです。(続きます)
- 焼火神社
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