「五島列島」旅 その22(中通島) 瀬戸に映える桐教会と、山神神社の謎
春の足音が聞こえてくると旅のことを考えたくなります。どうも、いづやん(@izuyan)です。
五島列島旅の第二十二回をお届けします。中通島での教会巡りもいよいよ最後です。真手ノ浦教会、中ノ浦教会と南に移動しながら目的地の桐教会に向かいます。
瀬戸を見下ろす桐教会
国道384号線を南に下り、若松島に通じる若松大橋へ向かう道路に入って若松島には向かわず、島の西側の海岸沿いの道をさらに南下します。
景色は相変わらず入り組んだ海岸線を右手に映しながら過ぎていきます。
10分も行くと、桐古里郷地区に到着します。道の先の丘の上には「桐教会(きりきょうかい)」が屹立しているのが見えます。丘の麓、道路を挟んですぐ前はこんもりとした緑をたくわえた岸に囲まれ、青い水面をたたえた瀬戸です。
五島の教会を色々巡ってきましたが、ここのロケーションも実に絵になります。小高い丘を囲むように底の見えるほど澄んだ海が間近まで迫っています。その水面にはいくつも船が泊まっています。
できることなら空からこの教会と瀬戸の様子を撮ってみたい!と思わせるほどの場所です。
桐教会は、1897年(明治30年)に創建されたあと、1958年(昭和33年)に鉄川与助の手によって改築されたものが今見ているこの姿です。
道路脇からすぐ始まっている階段を登ると、桐教会の正面に出ます。
逆光で中までよく見えなかったのですが、正面の塔は鐘楼でしょうか。内部の一番上に鐘があるのでしょう。
そばまで来てしまうとわからないのですが、屋根は赤く、白壁と対照的で、直線的な外観にも関わらず女性的な印象を与えています。
教会の中は、白い壁の開放的な空間でした。正面の大きな十字架が印象的でした。
教会の敷地内に建てられている「信仰の先駆者顕彰碑」は、五島の信仰の歴史を端的に表しているものだそうです。
中央は、長崎市街の大浦天主堂の方を指し示す桐古里郷のガスパル与作。17歳で五島の人間として初めて大浦天主堂に行き、プチジャン神父に教えを受けて五島の信仰復活に尽力したそうです。向かって右はその父下村善七、左は伝道師として300人を洗礼に導いた指導者清川沢次郎です。
この碑の銘板の上、下村善七の下にある大きな石は、キリシタン弾圧の時に拷問に使われた実際の「抱き石」がはめ込まれているそうです。まさに、「五島のキリシタンの歴史」を象徴する碑、と言ってもいいでしょう。中通島の最後に訪れた教会としてはこれ以上ない場所でした。
教会を背にすると、瀬戸が見えます。信仰の先駆者たちと信徒たちの苦難を思うと美しいだけに終わらない景色だと感じますが、今はただこの光景にため息が出るばかりです。
曇っていても教会とその周りの景色は素晴らしかったですが、晴れている時にまた必ず訪れようと心に決めました。
旧桐教会の遺構
この日、宿を出発する前にこの教会を勧めてくれたホテルの支配人さんの話では、
「明治期の旧桐教会の一部が裏手に残ってるので、時間があったら探してみてください」
と教わっていました。桐教会の背後にはちょっとした山が見えます。この向こう側でしょうか。
iPhoneの地図で探してももちろん出ないですし、ネットで調べてもはっきりした場所がわかりません。桐教会の敷地をウロウロしながら調べていましたが、ふと教会の中に人がいるのに気がついたので声をかけてみました。
応対してくれた信徒の女性は物腰柔らかな方で「信徒の方ですか」と聞かれましたが、違うと答えても特に気にするようでもなく、旧桐教会の場所を教えてくれました。
お礼の気持も兼ねて、
「ここは本当に素敵な場所ですね」と言うと、
「潮が引いていたらもっと海面が綺麗に見えるんですよ」とのこと。やはりもう一度来るべき場所ですね。
信徒の女性から聞いた場所は、来た道を少し戻り、桐古里郷の中に入り、桐教会の真裏に回る、とのことでした。
角にある「きり保育園」を曲がり、集落に入ります。5分ほど歩くと、住宅地の奥、少し上り坂になった路地の行き止まりに階段があり、「聖ヨゼフ」の像が建っているところから柵越しにその姿を見ることができます。
これは、桐教会が今の場所に移転する前のものか、旧司祭館の壁面が残っているものか、どちらなのかが最後までわかりませんでした。信徒さんの話では移転前の教会跡、ということですが、ネットで調べると司祭館跡、とも出てきます。実際のところはどちらなのでしょうか。
別の路地からだと正面から見られます。
山神神社の謎
旧桐教会の遺構を見たあと、宿の支配人さんから聞いていたもう一つの「あるもの」を見るのに集落を散策します。
それは「神社」です。教会巡りの最中に神社?と思うかもしれませんが、支配人さんからは「昔の隠れキリシタンの信仰の隠れ蓑になっている神社がある」と教わって、俄然興味が湧いたからでした。
桐古里郷は小さな集落みたいですが、さすがにやみくもに歩いても見つけられなさそうなので、通りがかったお年寄りに神社の場所を聞いてみました。歩いてすぐのところだそうです。
たどり着いた神社はこじんまりとしていて、特段変わったところはありませんでした。強いて言うなら賽銭箱や千社札、注連縄やしでみたいなものが一切ない簡素過ぎるといえば簡素な神社です。正面の鳥居にははっきりと「山神神社」と書かれていましたが、祭神が誰なのかは書かれていません。鳥居自体は昭和13年に奉納されています。
左には小さな祠がありました。ひとつには側面に明治二十年?云々、と彫ってあります。
反対側にもありました。こちらは「塩釜神社」と読めます。
この時は「地味な神社だな。隠れ蓑にしているのだから最低限の様式を備えているだけなのかな」くらいにしか思わなかったのですが、旅から帰ってきてずっと気になっていたので少し調べてみたところ、「隠れ蓑」なんてとんでもない、全国でも稀な「キリシタンを御神体として祀るキリシタン神社」そのものとわかって驚愕しました。
当初は普通の神社として「大山祇神(オオヤマツミ)」を祀っていたそうですが、いつの頃からか、この地に移り住んできた潜伏キリシタンによって祀られるようになり、現在に至るまで氏子のほとんどが「カクレ」の門徒として「カクレ」の年中行事を密かに維持しているそうです。
詳しくはこちらの記事を読んでみてください。恥ずかしい話ですが、僕はここまで旅をしてきていながら「カクレキリシタン」と「カトリック」はさほど変わらないと思っていたのですが、その記事を読んで全くもって似て非なるものだと痛感しました。
そして、今でもその信仰を人知れず守っていると知って驚くとともに、カクレキリシタンの本当の歴史をほんのわずかだけ垣間見た気がしました。
ただ、どうしてもその行事が見たいかというとそうでもなく、人知れずそういった文化が綿々とこれからも続いていってくれればいいと思うのです(続きます)
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